A miracle in an ordinary life.

ヨガを生きる。

きょうだい児として生きる

2024年明けましたね、年明けから毎日さまざまなことが起こり、かく言う私も、いっ時ではありますが地震の流れの渦中におりました。(現在はもう普段通りの生活が送れておりますのでご安心下さいませ…)

日本は地震大国ですから日々各地で地面は揺れています。こんな時、人間というものはちっぽけなもので、、、地球の息吹の前ではどうしようもできませんね。でも、無力だからこそ、日々の何気ない瞬間がとてもかけがえのない愛おしいものだということに気が付かされるのかもしれません。

 

さて。本題に入ろうかと思います。

今、とてつもない内側からの衝動で、このブログを書いています。

この心の中で、これまで生きてきた中で感じたたくさんの、たくさんの感情を味わい切りたいのかもしれないし、私、という人が何を考えて、感じて、何を見て、聞いて、味わってきたのかをただアウトプットしたいだけなのかもしれないし、それをあわよくば、誰かに打ち明けたいのかもしれないし、、そのいずれか、またはその全部なのかもしれませんが、とにかく、めっちゃキーボードをタイピングしていますw

 

色々といちから話すことがとてもめんどくさいので(おーい)私、という人の人生において、何はなくともここは譲れない「属性」から話そう。

それは、私は「きょうだい児」である、ということです。

そう、きょうだい児。今でこそ、そんな風に言葉があり、言葉があるということは、現実世界に「存在」として認識されてきた(ヨガ哲学風)、ということでもあるのですが…

きょうだい児とは、障害を持つ兄弟姉妹がいる人を指す言葉です。

私には自閉症の弟がいるのです。

3歳年の離れた弟。

私の人生の中に、いっ時たりともその存在は消えることのなかった、私の大切な弟です。

 

家族というものはとても複雑ですね。実際に縁を切ることはできるけど、彼らを人生から追い出し、跡形もなくなかったことのようにできるのかといえば、それは決してできることではないでしょう。

…出だしから不穏なのですがw、そう、家族だからといって手放しに愛おしき我が弟よ、と、思いっきりハグをすることは、、ずっとずっとできませんでした。

なぜなら、弟のことは子どもの頃からずっと大っ嫌いでしたから。

大っ嫌い、と、家族の誰かに対して言うことは、心の中でさえとても罪悪感が湧きます。(私の場合、本人に言ったことは覚えている限り無いかも、それがまた溝が深いとも言える)

そして、そんな風に感じる自分のことが、何より大っ嫌いで。

実家にいた頃は本当に色々なことがあり、家庭の中での暴言暴力は日常茶飯事で警察沙汰になりそうなことも何度もありましたし、正直心の休まる家庭ではありませんで、自己肯定感のとても低い大人に成長した私は、人間関係、恋愛、仕事、色々なことで壁にぶち当たり、精神的にも不安定で自分の人生を投げ出しそうになったことも何度もありました(よくそれなりに生き延びてきました)

そんな綱渡りをするような日々から10年ほど前にヨガに出会い、哲学を学び、さらに意識について学び、今、少しづつ自分の人生を取り戻しつつあります。だから、ヨガとか瞑想いいよ、などと言うつもりは毛頭あるわけではないのですが(ないのかーい。なぜなら、何を選ぶかはその人に委ねられているから、という訳で)今言いたいこと。

 

これまで深く傷ついてきたからこそ、世界を深く覗く目が養われたとも思うし、人の心の機微に敏感になることもできた。

これまで弱かったからこそ、自分の人生を自分で終わらせる勇気も持てずにダラダラと生き延びてきて、後々に素晴らしい人たちと出会うことができた。

これまで弟との言葉に出来ないほどの葛藤があったからこそ、家族、と言う濃厚な人間関係の中で、スルメを噛むように色々な感情を湧き上がらせ、その苦しみも悲しさも辛さも感じてきた。

そして、その深くて濃い感情は「自分」と言う人間の輪郭を浮き上がらせ、私と言う人間の、内面への探求の歩みを決して止めない原動力へと変わり、だからこそ感じることとなった本当に大切なものに気が付かされた。

人間が、一生というスパンで感じるであろうさまざまな感情(主に苦しみ方面w)を、私、という人間は本当にたくさん、そして誰よりも深く、知りたかったのかも知れないし、それが、私の心からの欲求だったのかもしれない。とすれば、私の願いは見事にきき届けられていた。

これまで心の中で、何度も父や母を呪い、弟を呪い、そして何より自分を呪い、呪っては家族には懺悔し、自分のことは許せず、世界の全てに背を向けて生きてきた時間を経てきたからこそ、今観える風景がある。

 

今年で45歳になる。

人生の折り返しを過ぎつつあって、人生の前半戦はそろそろ終わる。

 

私の弟は、今でも変わらず自閉症で、私は、彼の姉という立場で変わらず生きている。

私のことを考える時、私自身のことよりも弟のことが先に過ぎる。

誰よりも弟と一体化している私がいて、ある意味じゃ誰よりも弟と仲がいいきょうだいって訳w

サイコーにすごいかも。

やっぱり私にとって大切な存在だ。

それはただ単に大切というより、私を余すところなく生きる上で必要な存在なのかもしれない。(私はしつこいのだ)

…認めたくはないね。

年の離れた兄弟だけれど双子のようにいつも心を寄せ合っている。

穏やかに寄せ合っているわけではないけれど、、、なんかそんな感じ。

 

でも、今の今でさえ、すっきりと弟のことを受け入れているかといえば、やはりね、

将来のことを考えたりするととても不安になる時もあるんだけれど、

まあ、それは私一人で背負わなくていいのかなと思えるように少しづつなってきていて

そうすると、少し安心できる。

言葉にすれば、家に帰ってきた感。

それは実家とか誰かの家などの現実の家というのではなくて

自分の心の中の、自分だけのホームに帰ってきた感。

 

もし、今、かつての私が経験してきたような、そんな同じ境遇の人がいたら、どうか一人で抱え込まないで欲しい、と伝えたい。

私はずっと一人で抱え込んでしまって、親も誰にもその辛さを打ち明けられずにいた。辛いと思うことはいけないことだとさえ思っていた。

だからこそ感じられたことが、上に書いたように沢山あったけれど、でもだいぶ世の中を斜めに見る癖もついてしまったと思う(今はその癖を、ヨガ、瞑想などでアイロンを伸ばして皺を取るみたいなことをして気持ちよくなっているのかもねw)でもそんな自分の今の目線は、自分であたたかく迎えられるようになってきた。

 

辛いことは辛いんだと言っていい。

どんな思いも

あなたの内側にある大切なあなたの心の声だ。

誰もあなたを責めない。

ずっとずっと、あなたを抱きしめている手があることを思い出して。

 

 

 

 

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