A miracle in an ordinary life.

ヨガを生きる。

言霊診断、お役目を生きる人生

すっかり、ブログの更新が滞っておりました

もう二月も終わりの今

 

 

 

実は今月から新たな仕事を始め、始めたと思ったら、体調を崩し1週間ほど寝込み、なかなかブログに取りかかれないでおりましたが、今月中には一記事を上げなければ、という気持ちで今パソコンに向かっております。

前置きが長くなりました。

 

先週、言霊診断というセッションを受けました。

友人が主催する講座に今月から参加中なのですが(それもあってなんかいっぱいいっぱい)その講座の特典だったのです。

私のこれからの方向性を考える上で、まだどのように意識づけをすれば良いのかが手に取るようにわかりました。

ただ、どこかでその方向に抵抗を感じる自分もいてw

でも「お役目」っていう言葉、あるじゃないですか。

それをやりに生まれてきたんだろうなぁ、と、感じる自分もいると同時に、

その全てが、自分がカタルシスを得るために語りたい、物語とも言えるよねぇと、

どこか冷めた目で見ている自分もいたりしている。

(それは、そこへコミットすることに尻込みしているだけなのかもしれない)

 

何気なく、以前のブログを見てみたら、こんなこと、書いてあるじゃないですか。

肚に、天に、投げかけた質問の答えが返ってきたじゃん、と、思わず心の中で呟く。

tamayurano.hatenadiary.com

 

 

いずれにせよ、日々は続き、私という人は生き続ける。

そして、そんな日々が自分の人生を作っている。

そのセッションの最中、ふるふると体感し、共鳴した言葉の響きを大切にしていこうと思います。

 

 

 

 

 

瞑想という一拍の余白時間を散りばめて

2024年、早くも1ヶ月が経とうとしています。

 

早いね〜。早いよね。

今年は元日から様々なことがありました。最近やっと落ち着きを取り戻しつつあります。でも今春には人生初の一大イベントがありまして(個人的なことなのでここでは控えますが)そちらの準備にずっと意識が向いております。何段階もの書類の締め切りがあって、書類の準備をしながらも同時にイベント自体への準備も進めなければならず。しかしよくよく考えれば、私自身のイベントではないのですが。なぜ私が主導でしかもこんなに疲れているのか?!という気づきを今得ました。

私自身のことではないのに、私自身のことのように、私が張り切っているのは「私が」それをやりたかったから、なんですよね、、こ、これは…。自分の人生を生きていない、に他ならないのでは、と思ったりしてw

さて、そんな意識となった今、これから先はどうなっていくのでしょうか?!笑

 

と、こんな風にこの1ヶ月を振り返り。

落ち着く時間もあればそうではない時もあって、それはまばらなのですが、寝起きのほんの10分ほどの瞑想をした日は、その日1日が忙しくても心には余裕がある。

今読んでいる本は、かつての一瞥の感覚を思い出させてくれ、そして今実践していることについての知識を与えてくれる本でもあり、読み出してからまたなかなか調子がいい感じでもある。

 

でも、

自分にとっての大切なことからぶれているのか、または、忘れてしまっていないか。

→実はブレブレ、すっかり忘れていた。

欲しい答えがあったのだけれど、そこを意識することを上記のような日常に埋もれさせて忘れてしまっていた!!!

という気づき。

 

今している私個人のことと言えば、ずっと続けている翻訳作業とアウトプット。

→こちら、いい感じに力が抜けてき始め楽しくできている。

今、欲しいものは、ある楽器、それからある機械、これからの自分に絶対に必要なものなのかは、今の時点ではわからないけれど(当たり前)それで遊びたい感覚。

なんかメモってしまった。

 

今朝は肚に聴く。

これからのことを。

目標を。

私という人は、何がしたいのか、を。

それらはすぐにはわからないものだけれど、

問いは投げれば必ず返ってくる。

でも

それらは、生活の中に余白がないと、なかなかわからないものです。

一拍の呼吸を味わうことを大切にしよう。

 

 

 

 

永遠不変な世界のサイクル

今日の日付が変わる少し前に冥王星水瓶座に移る(2回目のプレ期)ということで、今日明日は大きな切り替わりの時だそう。

f:id:tamayurano:20240120161529j:image

 

これから、どんどん社会の雰囲気が大きく変化していくようですよ。思えば昨年から(というよりコロナから)これまでの「当たり前」がどんどん破壊されてきて、年始からもその流れは変わらず。

具体的なことは敢えて言いませんが、何となく肌で感じることもあって…心の中でこっそりとそうくるかぁー(やっぱりな)と独り言を呟くこともありました。

 

世界は、創造→維持→破壊を繰り返しながら永遠に続いていく。

形あるもの(物質)は、例外なく必ず崩れていくという視点で世界を観る必要がある。

とヨガ哲学では説きます。

盛者必衰の理です。

(これは余談ですが、ヨガ哲学ではもう一歩踏み込み、手に取ることのできない形のない一部のもの(例えば時間、例えば心)も物質と定義します。なぜなら目にみえる物質と同じように「変化する」から。)

 

そう、変化する、ということがポイント。

変化する世界、ということが不変なのです。

それが、私たち人間が生きる世界です。

私はその教えが好きで、心が迷った時に立ち返る場所はいつもここだったりします。

ここから出発すると、本当に大切なものを見極めることができて、次の一歩を踏み出すことができるようになるからです。

迷う時、動けない時、何だかうまくいかない時。

人は、自分自身にとっての大切なものがわかっていなかったり、気がつかないまま見誤っていたりする。(世間体や常識などの当たり前に目隠しをされていることもかなりあるよね)

 

不変を願い、安定を求めた途端、変化が始まり、不安定になっていく、

という矛盾を抱えてる私たちの心。

 

 

今日は大寒です。あたたかくしてお過ごしくださいませー

 

 

自分を枠に嵌め込んで観えること

どこにいるのか、何を見ているのか、何をしているのか、は、実はそんなに大事なことではなくて(→本質ではない)その行為行動をしている時に、どんな意識でいるのかをただ冷静に見つめてながら息をしていくこと(生きること)が大切。

自分で自分を捉えて離さない思い込みが、自分の考えと行動を狭めている。

 

私の場合は、ほんの些細なことがきっかけでその状態に気がいた。

(いつも、こんな些細なことが気づきをもたらせてくれる)

昨年私は、ヨガと出会った場所であり、かけがえのない人たちと出会った場所であり、慣れ親しんだ場所から新しい土地へと生活の拠点を移した。

 

しかし、居を移してからこの1年ほど、心身の調子がすぐれない日々が多かった。

転居を決めたのは私のはずなのに、心のどこかで、こうなったのは家族のせい、そして自分が不甲斐ないせいだ、と責めている自分がいた。

環境の変化に伴って変化する自分やその全てををまるまると受け入れることが難しかった。

そんな意識のまま生活していれば、目の前の家族がどんな状態であるか、何を欲しているか、そういうことは見えてこないのは当然なこと。

でも、そのすれ違いの中でも喧嘩をしながら意思の疎通を図ってきたお陰で、私の伝えたいことが伝わるし、家族の伝えたいことが伝わってくる。

だからどちらにせよOKなんだけれどねw

でも、その視点を持ち続けて生活するのは結構難しくもある。

生活の中の全ての行動には無意識がダダ漏れるし、そして家族でああれば尚更、自分の無意識の投影がガッツリだから、、、

そのマイストーリー、もしくは自分劇場に入り込んで、幻想の中でマリオネットを演じているだけの瞬間を続けてしまう、そんな寸法ですねー!

そんな世界にはまり込むことが多かった2023年でした。

だからこその最近の流れもあるよね、と、どちらにせよ、流れの中に全てのものはありますね。

 

 

 

 

 

 

 

きょうだい児として生きる

2024年明けましたね、年明けから毎日さまざまなことが起こり、かく言う私も、いっ時ではありますが地震の流れの渦中におりました。(現在はもう普段通りの生活が送れておりますのでご安心下さいませ…)

日本は地震大国ですから日々各地で地面は揺れています。こんな時、人間というものはちっぽけなもので、、、地球の息吹の前ではどうしようもできませんね。でも、無力だからこそ、日々の何気ない瞬間がとてもかけがえのない愛おしいものだということに気が付かされるのかもしれません。

 

さて。本題に入ろうかと思います。

今、とてつもない内側からの衝動で、このブログを書いています。

この心の中で、これまで生きてきた中で感じたたくさんの、たくさんの感情を味わい切りたいのかもしれないし、私、という人が何を考えて、感じて、何を見て、聞いて、味わってきたのかをただアウトプットしたいだけなのかもしれないし、それをあわよくば、誰かに打ち明けたいのかもしれないし、、そのいずれか、またはその全部なのかもしれませんが、とにかく、めっちゃキーボードをタイピングしていますw

 

色々といちから話すことがとてもめんどくさいので(おーい)私、という人の人生において、何はなくともここは譲れない「属性」から話そう。

それは、私は「きょうだい児」である、ということです。

そう、きょうだい児。今でこそ、そんな風に言葉があり、言葉があるということは、現実世界に「存在」として認識されてきた(ヨガ哲学風)、ということでもあるのですが…

きょうだい児とは、障害を持つ兄弟姉妹がいる人を指す言葉です。

私には自閉症の弟がいるのです。

3歳年の離れた弟。

私の人生の中に、いっ時たりともその存在は消えることのなかった、私の大切な弟です。

 

家族というものはとても複雑ですね。実際に縁を切ることはできるけど、彼らを人生から追い出し、跡形もなくなかったことのようにできるのかといえば、それは決してできることではないでしょう。

…出だしから不穏なのですがw、そう、家族だからといって手放しに愛おしき我が弟よ、と、思いっきりハグをすることは、、ずっとずっとできませんでした。

なぜなら、弟のことは子どもの頃からずっと大っ嫌いでしたから。

大っ嫌い、と、家族の誰かに対して言うことは、心の中でさえとても罪悪感が湧きます。(私の場合、本人に言ったことは覚えている限り無いかも、それがまた溝が深いとも言える)

そして、そんな風に感じる自分のことが、何より大っ嫌いで。

実家にいた頃は本当に色々なことがあり、家庭の中での暴言暴力は日常茶飯事で警察沙汰になりそうなことも何度もありましたし、正直心の休まる家庭ではありませんで、自己肯定感のとても低い大人に成長した私は、人間関係、恋愛、仕事、色々なことで壁にぶち当たり、精神的にも不安定で自分の人生を投げ出しそうになったことも何度もありました(よくそれなりに生き延びてきました)

そんな綱渡りをするような日々から10年ほど前にヨガに出会い、哲学を学び、さらに意識について学び、今、少しづつ自分の人生を取り戻しつつあります。だから、ヨガとか瞑想いいよ、などと言うつもりは毛頭あるわけではないのですが(ないのかーい。なぜなら、何を選ぶかはその人に委ねられているから、という訳で)今言いたいこと。

 

これまで深く傷ついてきたからこそ、世界を深く覗く目が養われたとも思うし、人の心の機微に敏感になることもできた。

これまで弱かったからこそ、自分の人生を自分で終わらせる勇気も持てずにダラダラと生き延びてきて、後々に素晴らしい人たちと出会うことができた。

これまで弟との言葉に出来ないほどの葛藤があったからこそ、家族、と言う濃厚な人間関係の中で、スルメを噛むように色々な感情を湧き上がらせ、その苦しみも悲しさも辛さも感じてきた。

そして、その深くて濃い感情は「自分」と言う人間の輪郭を浮き上がらせ、私と言う人間の、内面への探求の歩みを決して止めない原動力へと変わり、だからこそ感じることとなった本当に大切なものに気が付かされた。

人間が、一生というスパンで感じるであろうさまざまな感情(主に苦しみ方面w)を、私、という人間は本当にたくさん、そして誰よりも深く、知りたかったのかも知れないし、それが、私の心からの欲求だったのかもしれない。とすれば、私の願いは見事にきき届けられていた。

これまで心の中で、何度も父や母を呪い、弟を呪い、そして何より自分を呪い、呪っては家族には懺悔し、自分のことは許せず、世界の全てに背を向けて生きてきた時間を経てきたからこそ、今観える風景がある。

 

今年で45歳になる。

人生の折り返しを過ぎつつあって、人生の前半戦はそろそろ終わる。

 

私の弟は、今でも変わらず自閉症で、私は、彼の姉という立場で変わらず生きている。

私のことを考える時、私自身のことよりも弟のことが先に過ぎる。

誰よりも弟と一体化している私がいて、ある意味じゃ誰よりも弟と仲がいいきょうだいって訳w

サイコーにすごいかも。

やっぱり私にとって大切な存在だ。

それはただ単に大切というより、私を余すところなく生きる上で必要な存在なのかもしれない。(私はしつこいのだ)

…認めたくはないね。

年の離れた兄弟だけれど双子のようにいつも心を寄せ合っている。

穏やかに寄せ合っているわけではないけれど、、、なんかそんな感じ。

 

でも、今の今でさえ、すっきりと弟のことを受け入れているかといえば、やはりね、

将来のことを考えたりするととても不安になる時もあるんだけれど、

まあ、それは私一人で背負わなくていいのかなと思えるように少しづつなってきていて

そうすると、少し安心できる。

言葉にすれば、家に帰ってきた感。

それは実家とか誰かの家などの現実の家というのではなくて

自分の心の中の、自分だけのホームに帰ってきた感。

 

もし、今、かつての私が経験してきたような、そんな同じ境遇の人がいたら、どうか一人で抱え込まないで欲しい、と伝えたい。

私はずっと一人で抱え込んでしまって、親も誰にもその辛さを打ち明けられずにいた。辛いと思うことはいけないことだとさえ思っていた。

だからこそ感じられたことが、上に書いたように沢山あったけれど、でもだいぶ世の中を斜めに見る癖もついてしまったと思う(今はその癖を、ヨガ、瞑想などでアイロンを伸ばして皺を取るみたいなことをして気持ちよくなっているのかもねw)でもそんな自分の今の目線は、自分であたたかく迎えられるようになってきた。

 

辛いことは辛いんだと言っていい。

どんな思いも

あなたの内側にある大切なあなたの心の声だ。

誰もあなたを責めない。

ずっとずっと、あなたを抱きしめている手があることを思い出して。

 

 

 

 

Des'ree - Life (Official Video) - YouTube

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夢の背後。枕元の情報がこれからの風景を描く

一段と寒さが増した今日。夢の話。

 

 

寝る時ベッドには当たり前のスマホを持ち込んでいる毎日。

ヨガの哲学を学んでいた日々、よく教えてもらったことは、

「見たこと、聞いたことでその人の思考や意識がつくられる。だから触れる情報には注意を払わなければならない」ということだった。

肉体に例えればとてもわかりやすいこと。

食べたもので、その肉体がつくられるように、人の思考は普段、例えば、どんな音楽を聴いているかとか、どんな話を聞いているかなどで変わってくる、ということ。

当初は意外とその教えが受け入れられずにいた私だったけれど、今、それはストンと腑に落ちている。

なぜって、寝る直前に観ていたもの、聴いていたものが如実に夢として現れてくるから笑

 

昨夜は久しぶり、芥川龍之介の文学作品の朗読動画を聴きながら寝入ったら

今朝はとても難しい言葉を使うイメージがあって、目覚めが少し苦しかったし笑

また別の日は、

ネットに広告に出てくる漫画の無料分だけを読んで寝て、

その日の夢は旦那と離婚をする!と宣言する夢だったのだ笑

(そう、内容は夫に虐げられた妻が逆襲するというストーリー笑)

 

そんなふうに、実は普段何気なく触れている情報を取り入れ、咀嚼し、自分を形作っているのだ。

これが一回であれば、こうやって気がつくよ。

それが毎日続いて、何年も続けば…

触れる情報で思考が作られ、いつの間にか染まっていく。

ネットがある昨今は、観たい情報、聴きたい情報だけを集められるし、更にその情報はどんどんアルゴリズムで集まってくる。

 

(余談)

→じゃあ、それって、自分って言えるの?

だって、それ、全部、さまざまな情報の組み合わせじゃない?

じゃあさ、今まで自分って思っていたものって何?

そもそも自分って、、、なに、、?

(という方向に進むのがヨガ哲学です。)

 

だから、毎日どんな情報に触れるか、とても大事。

人間は昔からこの特性を使って生きてきた。

この特性を使えば、人生をよりよくクリエイトすることができるから。

 

 

 

 

愛のかけらを見つけた日

疲れたのか、ご飯を食べて少しゴロゴロしていた我が子がそのまま寝入ってしまった今日。

 

 

横向きでほっぺたに手のひらをぺったりつけて寝ていた。

赤ちゃんの頃から変わらない寝相。

もっと言うと、お腹の中にいる時から変わらない(検診時に3D画像で見せてもらった)

そしてすやすやと寝息を立てる寝顔も、赤ちゃんの頃と変わらない。

 

本当なんだ、と思った私。

寝相と寝顔は、子どもの頃から変わらなくて、本当に可愛いな、って、父から何度が言われたことがあったこと。

そっか、、こんな風に、父は寝ている私を見ていたんだ。

当時それを聞いて、実は心の中ではやめてくれ〜と思っていた。

無防備な姿を晒したくなかったから。寝ている隙に寝顔を見るなんて、なんてキモいの!(父、ごめん)って、思っていた。

(でも冷静に考えれば、親なのだから、赤ちゃんでまさに無防備な私のお世話をずっとしてきているのだけどね笑)

 

今、子どもの寝顔を見て、とっても幸せな気分でいる私がいる。

大変な乳幼児のあの頃を思い出して、でもそれもとても懐かしくて。

もう、二度と戻れないから、心の中で結晶となっていつまでも仕舞われている思い出のかけらだ。

 

あぁ、そうか。

あの時の父も、きっとこんな気分で、とても嬉しかったのかもしれないね。

そう思った時、じんわりときて、胸の辺りが少しほころんだ気がした。

私のことを、愛してくれて、大切にしてくれた、お父さん。

 

生きてて、生まれて、良かったんだ、の結び目がまた一つ、増えた。

 

なぜ、こんな風に思ってきたのかといえば、自分のことを責める気持ちがまだ残っているからだろうな。

いいお姉ちゃんじゃなかった、いい娘じゃなかった、って。。

お父さんも私もまだ生きているから、これからがあるはずなのに、

この先も決まっているような、この自分に対しての固定観念がある限り本当の自由は手に入らないのがわかる。

 

今日は一つ、愛のかけらを子どものお陰で気がつけた日。