A miracle in an ordinary life.

ヨガを生きる。

内なる対話。コントロール欲の気づきと人格交代をめぐるヒプノセラピーセッション

久方ぶりにヒプノセラピーセッションを受けた話。

 

 

 

 

つい先日、昔からの仲の良かった友人に連絡をしたら既読もつかず勿論返事も返ってこない、という出来事がありました。

それについて様々思いを巡らし、自分の至らなさなども振り返ったり、そして悲しさ、喪失感、怒り、などの自分の感情とも向き合い、ある一つの結論に達してはいたものの、何となくモヤモヤがありまして。

 

ヒプノセラピーとは、セラピストに誘導瞑想をしてもらいながら脳波を下げ催眠状態の中でより深い意識、つまりは潜在意識の声を拾い上げ、それによりそれまでの経験によって自分で作り上げた思考の癖を顕在化し、クライアント自身がハッキリと自覚し意識できるようになることで行動変容に繋げるセラピー。

 

催眠状態でその仲の良かった友人と人格交代を行ない対話をしながら、

心の領域、潜在意識にある思考の癖を紐解いていったのでした。

 

 

人格交代とは、例えば霊媒によって本当のその友人(の魂)が目の前に現れるとか、そういうことではありません。

私の心の中にある「友人の姿」をした、もう一人の私と対話をしていきます。

 

セッションに入る前は、一瞬、めっちゃ怒っている友人のイメージが浮かんだのですが、

実際のセッションでは全くそんなことはなく、サラッとしている感覚で、

「あなたと私は違う人間なんだよ」というようなことを伝えられました。

そんなの当たり前じゃん、と思えることですが、

自分の考え方に共感してほしいを超えて、これが正しい!これじゃないとだめ!という、

相手の考えや行動までもをコントロールしようとする自分がいたのです。

そのコントロール欲は顕在意識でもわかっていたことですが、

やっぱり、そうだったんだね、とまたそれを見せつけられた感がありました。

私の中の友人(それは私)と、私とで十分お話をし、最後は統合をして戻ってきました。

 

自分の中にあることがわかっている癖も、セラピストとと共に深く見に行ってみると、

もう十分、(何度も言う笑)分かっている!と思っていることでも、また更に深く染み込み、

「あぁ、、、やっぱりそうなんだ…」と納得することで新たな展開が始まっていく。

 

それはまるで、陰ヨガの体感のようで。

まずは知ること、そして気がつくこと。

気がついたら、そのまま受け入れること。

受け入れ切ること。

そうすれば、そのままでゆるみ、スペースが生まれ、

新しいもの、こと、を受け入れる余地とこれまでになかった選択肢を得ることができる。

 

 

 

余談。

ヒプノセラピーを受けた日の夜。

家族でUNOをするのが定番なのだけど、強いカードばかりが配られて連勝続き!

そして、まるで私が勝つストーリーがあらかじめ決められているかのように、出てほしい色、数字を家族だどんどん出してくれて、ドンピシャで無理なく勝つと言う凄いことがありました笑

潜在意識を整えるとこんなこともあるのだ〜!

 

後日。

私自身が、人の思考と行動をコントロールしたい、これが正しい、を押し付けたいのがありありと分かるようになってきている。(なぜなら、目の前にいる人が、私にそれをやってくる)

ずっとこれをやっていきたいの?

これをやり続けていきたい?

別にやっていてもいい(良い、悪い、はないんだ)

進みたいと思う道の方向に、この癖は必要なものか、そうではないか?

 

と、自分で自分に問う現在。

 

う〜んと…別にいらない思考癖かなぁ、、笑

 

 

 

 

 

 

 

 

隠れていたい心。それ、本当?

数日前になんだかどうでもよくなった。

…投げやりになっちゃった?

ではなく笑

これまで何故か隠してきたこと

隠さなきゃいけない、と思っていたこと

隠している行動を取っている自分に対して

「なんで?」

と、自分に問いかける瞬間と出会った。

 

「なんで?そうして(隠して)いるの?」

と。

 

 

 

そう問いかけたら、

明確な答えは出てこなくて、尚且つ、

そうはしていたくなかった自分が出てきた。

 

要するに隠れていたくなかった自分が顔を出した、というより

その「素」と言えるかもしれない自分を見つけ、その自分と繋がれた、という感覚。

 

このSNS全盛の時代、誰に気兼ねすることなく発信をしている人たちって沢山いる。

匿名とかそんなことは関係なく、ね。

 

そういう沢山の人たちをずっと横目で見てきて、

その人たちの発信していることに心密かにケチをつけてきた自分がいる。

 

その発信している、特に匿名ではない人たちは、

だいたいにおいて自分の責任において言葉を選び、

自分の考えをただ伝えているだけ。

 

でもそこにも立てないこれまでの私は、超!上から目線のとっても嫌なヤツだった。。

と、心底感じてしまいまして。

今、本当に書きたいことを書き始めています。

誰かに遠慮してきたのですよね、こんなこと書いたら変に思われるんじゃないかって。

(このこだわり感、子どもの頃からずっと。

占星術でも表れていて、もう生まれ持ってきた今世のカルマと思われ、笑)

 

その誰って、本当に誰なんですか?

現実にいる人ですか?

いや、現実にいる人だとしても(それはイコール私。というのは置いておいて)

とにかく私一人の内面での葛藤がただずっと続いてきたな、と。

 

舞台にさえ立ってないのに、いや、舞台に立ってないからこそ言っちゃう、ケチ。

むしろ舞台に立てば、敢えて言える(かもしれない)ケチ(?)

あーそうか、だから私は、人の愚痴とかそういう吐き出しを聞くのが好きじゃなかったのか。

そうか、そうか(一人納得)

 

一生懸命やっている人にケチをつけるな、とかそういうことじゃなくて。

もっとスタートライン手前の感じ。

 

もう、舞台に立とう。

 

 

歩き出せ、クローバー

https://www.youtube.com/watch?v=gR3Nddf_pFA

www.youtube.com

 

 

 

 

 

朝の静けさ。ヨガ、ルドラヴィーナ、そして背骨の目覚める響き

近頃お気に入りの音楽の話。

YouTubeでおすすめに出てきたので何となく聴いたらとてもいい感じで、今は毎朝こちらを聴きながらご飯を作ったりコーヒーを飲んだりしております。

 

Zia Mohiuddin Dagar - Dhrupad - Raga Yaman - YouTube

youtu.be

 

朝は少しずつ目覚めながら活動を促したいなと思っていて、これまで、ラジオ(人の声)、アンビエント系、メディテーションミュージックなど色々聞いてきたのですが、うるさ過ぎたり落ち着き過ぎたりでなかなか、いい塩梅が見つからず。

しかしこの偶然見つけた音楽は、覚醒を促しつつも同時に穏やかな感じがとてもいい。

同じ楽器を演奏している他の人の動画も色々と観たのですが何となくピッタリこなくて、結局この動画ばかり聴いております。

 

 

でもこの楽器、何という楽器なのでしょうか。。

→調べました(wiki

 

ルドラヴィーナ 

ルドラヴィーナ(サンスクリット語: रुद्र वीणा ) ( Rudraveena [1]またはRudra vina [2]とも綴られます) —北インドではBīnとも呼ばれます[3]は、ヒンドゥスターニー音楽、特にドゥルパドで使用される大型の撥弦楽器です。[2]インドの古典音楽で演奏されるヴィーナの主要なタイプの 1 つで、その深い低音の共鳴が特徴です

en-m-wikipedia-org.translate.goog

 

 

そう、低音で響くのが、朝起き抜けの身体には心地よいのです。

 

さらに、名前の由来を調べたところ…(wiki

「ルドラ・ヴィーナ」という名前は、シヴァ神の名前であるルドラに由来しています。ルドラ・ヴィーナは「シヴァ神のヴィーナ」を意味します[3] (サラスワティ・ヴィーナと比較してください)。口頭伝承によると、シヴァ神は、妻パールヴァテ ィーまたは芸術と学習の女神サラスワティーの胸を表す 2 つのトゥンバ共鳴ひょうたんを備えたルドラ ヴィーナを作成し、長いダンディチューブは人間の背骨と人間の背骨の両方であるメルダンダとして作成しました。宇宙軸。[3]ダンディのフレット部分の長さは伝統的に拳 9 個分、つまりへそから頭蓋骨の頂上までの距離として表されます。[3]

しかし、シヴァ神は常に踊りと歌を楽しんでいたため、他の神々の娯楽のためにルドラ ヴィーナを作成したと強く信じられています。

別の説明は、アスラ ラーヴァナがルドラ ヴィーナを発明したと言われているというものです。シヴァ神またはルドラへの献身と同じようにインスピレーションを受けて、彼は楽器をルドラ・ヴィーナと名付けました。

 

ルドラ…聞いた事あるなぁと思って調べましたら。

暴風雨の神とのこと。

「泣く、吠える」を意味するrud に由来し、「咆哮を上げる者」「叫ぶ者」を意味する。

 

ja.wikipedia.org

 

そして、人間の背骨を模しているなんて!

そういうの、すっごくいい!!

ヨガで(だけじゃないけれど)重要視するのは「背骨」

エネルギーの通り道。

いつも整えておきたい場所。

さすがーインドー!

インドの哲学はとても奥深く祭祀のための音楽もヴェーダに書かれている、と習ったのを思い出す。

体も心も、そしてこの世界の物質全ては、神から生まれ、神に捧げ、神に還る。

 

歴史

ルドラ・ヴィーナはムガル帝国以前の寺院建築に見られます。この曲は、ザイン・ウル・アビディ(1418-1470)の治世の頃には法廷記録にも記載されており[3] ムガル帝国の宮廷音楽家の間で特に重要視されていました。[3]独立以前、ルドラ・ヴィーナ奏者はドゥルパドの実践者として、諸侯国の支援を受けていた。インドの独立と政治的統合の後、この伝統的な後援制度は終了しました。[5]この伝統的な支援の終了により、インドでのドゥルパドの人気は低下し、ルドラ ヴィーナの人気も低下しました。[5]しかし、近年、少なくとも部分的には非インド人実践者の間での関心によって、ルドラ・ヴィーナの人気が再燃している。[5] [6]

 

一旦は衰退しかけらしいこの楽器。

(他の楽器にとって代わられそうになったり、社会的な流れもあり)

実はあのおじさん(失礼)が近代のルドラヴィーナ奏者としての地位を確立させたようです。

 

すごい人だった!!!

詳しくは↓

en-m-wikipedia-org.translate.goog

 

 

ヨガの旅。エゴとの共存からの自己開示

 

2018年の春。

ヨガインストラクターになった。

ヨガを勉強しながら、インストラクターを続け、そして同時に母親でもあった頃の話。

 

 

 

 

私は一児の母。

子どもの同級生には一人っ子の子が少なくて、少し肩身の狭い思いをしていた(なんで)

様々なことが重なり、ヨガと出会った。

今思えば、あの頃、人生の岐路だったのだと思う。

インストラクターにまでなって、

私の心は、ドキドキとワクワクと、

そして不安もよぎりながらも、子育てを続ける日常を過ごしていた。

 

ヨガを通して学んだことはとても多く、これまでの自分の生き方全てを変化させるほどだった。

ヨガインストラクターにまでなってしまったのだから、まぁそういうこと。

 

ところで、お母さんをやっていると、同級生のお母さんとも話す機会が多くなる。

お母さんで、子どもが同じクラス、同じ学年などの共通点はあるものの、

それ以外のストーリーは共有していない人たちだ。

 

ヨガと出会って、大きく進路変更した私は、

出会った体験や感じたことを伝えたくなった。

今まで見たこともない世界を知ることができるようになるよ、と。

自分の内側を見つめると世界が広がるよ、と。

でもそことを伝えるのはとても難しいことも理解していたので、控えめでもいた。

そしてそういうことは、知りたい人ばかりじゃない、と何故か思っていて。

 

子育てという地に足をつけた「現実」世界では、ノイズになる気もした。

(つまりは自分自身が、そうだった)

 

それなのに、そこに気が付かない人や知ろうとしない人を

内心バカにし始めた私がいた。

 

エゴの芽生え。

 

いっ時はきれいさっぱりと消えて無くなったかのように思えたエゴが、再び湧き上がり始めた。

その傲慢さをずっと飼い慣らせないまま日々は続き、

その傲慢さに、ついに自分自身が喰われてしまい、また苦しい思いをする日々が始まり。

 

何をやっているんだろう???

 

そう自問自答しながら日常を送り、ヨガインストラクターとしての必要な態度ができなかったり、更にそのことにさえ気が付かなかったり。

 

自分の優位性を確認するためのヨガの学びに

いつの間にかすり替わっていた。

 

どれほど、私自身を大切にできてこなかったのか

そして心の声を聴いてこなかったのか

 

私を見て、私の話を聴いて、の声をナチュラルに無視してきたこと

 

 

ブログを通した自己開示をしながらの自己受容の日々は続きます。

(もちろん、お母さん仕事もね)

 

 

 

 

六花亭マルセイバターサンドを召喚する潜在意識の力

 

やってきました!

六花亭のマルセイバターサンド。

 

今日は、潜在意識の力について、そして引き寄せについてのお話。

 

 

 

 

 

数週間前、あるyoutube動画を見たことをきっかけに久しぶりに食べたいなぁって思っていたんです。

それで、動画を見た後、家の中で、空(天井)に向かって一人叫びまして笑

 

六花亭のマルセイバターサンドが食べたいっっ!!!!

 

その5日後に、出張から帰ってきた夫がお土産に買ってきてくれたのです。

六花亭ではないバターサンドを。

その時点で喜びいさんなワタシは嬉しくて嬉しくて、夫に感謝をたくさん伝え、そして

「わーい!!引き寄せができた!ちょっと違うけれど、でもとても嬉しいよ」と、心の中で思いながら食べたんです。

美味しかったけれど、、でもやっぱり、心が満たされない。

勿論、夫の気持ちはありがたく受け取りながらも、、正直、満足はしなかった。

 

そして改めて、

六花亭のが食べたい!!!と心の中で強く思いました。

 

 

そしてなんと、

その1週間後、

 

本物の六花亭のマルセイバターサンドが、

 

北海道へ旅行に行っていた家族から、

 

お土産として届いたのです!!!!

 

ブラボー!と大歓喜なワタクシ。

 

 

強く願う、心に止めることで、潜在意識の力が発動したようです。

私は何事も妥協しがち。

前回のブログでも書いたけれど、感情を感じても感じないふりをしがち、なのだけども、

この、マルセイバターサンドを食べたい!という強い欲求に素直に従い、

妥協しても良いいんじゃない?と囁く私もいたけれど、、それは敢えてせずに、

改めて願い、潜在意識へと埋め込んであげたことで、

潜在意識の力がいかんなく発揮され、その欲求が「素直に」表に現れてくれたのです。

 

「素直に」現れる。

これがとても苦戦するところかな、と個人的には思います。

「素直に」現れている時、そうじゃない時、勿論理由があって、ここではとりあえず省きますが(おいっ)個人的にはコツを掴めた気がします。

 

小さな成功体験。

経験した、新しい体験。

 

実は今日のブログも新しい体験を織り交ぜている。

 

少しづつ、これまでを剥がしていけますように。

 

 

 

 

 

怒りは感じ切れ!

タイトル通り、今フツフツと湧き上がる「怒り」の感情。

昨夜は原家族に対して。そして今は、ある友人に対して。

どちらも(当たり前に)自分にとって大切な人々であるし、客観視することも難しい人々。

だけど今、怒りを感じられる自分で在ること、嬉しく思う。

 

私は幼い頃から、怒りを感じた時それを表にきちんと出してあげることが苦手だった。

え?今のなによ!と感じたとしても、押さえ込む癖がついていて。

そんな癖がついてた理由も自分なりにはわかっているつもりで。

第一子長女で、3歳下の、障害のある弟に遠慮してきたからかな、と。

お姉ちゃんだからと、色々我慢してきたからかな、と。

そして、機能不全気味な家庭の中ですくすくと成長したからかな、と。

昨夜はそこに対して恨みにも似た感覚。

でも、そういう顕在意識で感じる思いさえ、私はアウトプットせずに自分の内に納め、何事もなかったかのように振る舞うのが当たり前だったです。

心の真ん中にあった、実は。

こんなことに怒るんだ、こんなことで悩んでいるんだ、ということを友人や家族に知られることが嫌だったから。

そして、こんなことを言っても仕方ないという諦めの気持ちも。

 

もし知られてしまったら、恥ずかしい気持ち、情けない気持ち、弱いと思われたくない気持ち、そんないろいろな気持ちがないまぜで、そして言ってしまったら、悟られてしまったら、本当に「そういう存在」になってしまうのではないか、と恐れていたから。

 

怒る、ということが苦手。

その感情の発露が怖い。

何か伝えようとしても、胸がバクバクして呼吸が苦しくなって、涙が、、出てしまうんですよね。

 

しかし近頃。

パートナーとちょいちょい喧嘩をすることができるようになってきて、

怒る感情はこうやって出してもいいんだ、と分かるようになってきた。

私の感情の高まりをいつも真摯に受け止めてくれるパートナーには感謝しかない。

 

喧嘩するほど仲がいい、とはよく言ったものだなと思う。

相手のことをよく知りたい気持ちと

自分のことを本当にわかって欲しい気持ちの、

ぶつかり合いなわけですが、それは表裏一体、同じことであることに気が付く。

ただ、立ち位置の違いだけ。

だから、見え方が違うだけ。

目の前の相手とのコミュニケーションでありながらも、しかし最終的には潜在的な自分との対話でしかない。

同じ熱量同士じゃないと、喧嘩も起こらない。。

お互いにきちんと真剣に向き合えた時に起こる、化学反応からの潜在意識の変容へ繋がる道でもある。

 

話は戻すけれど、

怒りを「悪い感情」と思い込んでいる私がいる。

なぜならば、、、簡単に言えば心身しんどいから。

幼き頃から身体で感じてきた。

怒りは、自分で自分を傷つけること。

そんな風にも感じていた。

どこかでそれを知っている。

 

怒りの感情を感じたら、私はその怒りを感じたくないばかりに、

「(その人から)してもらったこと」を思い出すことにしていた。

これは子どもの頃から自分でやってきたことだ。

(ちょっと私、、涙ぐましすぎる…これで拗れまくってきた)

でも、これって超しんどいの。

 

ここで。

湧いてくる感情に蓋をすることはできないんだよ、と、大きな(大人の)私が、小さな子どもの頃の私に向かって言う。

 

ただ誰かに対して怒りを感じたら無闇矢鱈にぶつければいい訳ではない。

というか、むしろそれは良くない。

最終的には暴力に繋がり誰かを傷つけ相手や自分の人生さえ破壊してしまうからね。

そう言うことではなくて、

「怒り」を感じた時

我慢しないこと。

その怒りを心身で感じ切ること。

 

感情を十分に受容したら、

なぜ、私は怒りを感たのかを問いかけることができれば、

自分が欲しいものが分かる。

何をしたいのかも分かる。

そして、相手に対して伝えやすい言葉を紡ぐことができる。

…これは大きな私ができること。

 

小さな私に大きな私が今言いたいこと。

怒っていいんだよ。遠慮しない。

 

 

 

ホロスコープでは火星が12ハウスにある私。

怒りの感情自体を感じづらい。

怒りを呼び起こさせてくれる人たちと事象はそんな私にとっては必要な存在。

有難い存在でもあるという事実。

 

どっかーん!!

 

 

 

 

 

110日がいつのまに(ブログ再開、そして近況)

ブログを再開したはずだったのですが、、、再度、開店休業状態w

気の向くままに書きつらねるはずが、気の向くまま過ぎていました、はい。

 

近頃、いろいろなことが起き過ぎて少し疲れつつもそこから様々学ぶこともあり、そして、私という人間のずるい下心を発見する日々でもあって。

やばい…願いが叶っている。

自分、という人間をどこまでも俯瞰でみたい、という願望はもうすでに叶っている。

思いがけない、予想できない(?、本当?)出来事から、私の限界が押し広げられ、思いがけない「自分」が顔を出す。

それは新たな発見でもあり、私が見ぬふりをしていたある部分の私でもある。

 

その時、思いっきり、被害者になりながら、出来事の中に飲み込まれ、いや、渦の中へとあえて飛び込み、その出来事を心ゆくまで堪能している。

苦しい出来事を舐め回して、そこから得られる全てを得ようとしている。貪欲なのだ。

ここに、今の自分がいる。

ここを抱きしめていこう。

 

(ドラマ『砂の器』を観ながら綴る)