タイトル通り、今フツフツと湧き上がる「怒り」の感情。
昨夜は原家族に対して。そして今は、ある友人に対して。
どちらも(当たり前に)自分にとって大切な人々であるし、客観視することも難しい人々。
だけど今、怒りを感じられる自分で在ること、嬉しく思う。
私は幼い頃から、怒りを感じた時それを表にきちんと出してあげることが苦手だった。
え?今のなによ!と感じたとしても、押さえ込む癖がついていて。
そんな癖がついてた理由も自分なりにはわかっているつもりで。
第一子長女で、3歳下の、障害のある弟に遠慮してきたからかな、と。
お姉ちゃんだからと、色々我慢してきたからかな、と。
そして、機能不全気味な家庭の中ですくすくと成長したからかな、と。
昨夜はそこに対して恨みにも似た感覚。
でも、そういう顕在意識で感じる思いさえ、私はアウトプットせずに自分の内に納め、何事もなかったかのように振る舞うのが当たり前だったです。
心の真ん中にあった、実は。
こんなことに怒るんだ、こんなことで悩んでいるんだ、ということを友人や家族に知られることが嫌だったから。
そして、こんなことを言っても仕方ないという諦めの気持ちも。
もし知られてしまったら、恥ずかしい気持ち、情けない気持ち、弱いと思われたくない気持ち、そんないろいろな気持ちがないまぜで、そして言ってしまったら、悟られてしまったら、本当に「そういう存在」になってしまうのではないか、と恐れていたから。
怒る、ということが苦手。
その感情の発露が怖い。
何か伝えようとしても、胸がバクバクして呼吸が苦しくなって、涙が、、出てしまうんですよね。
しかし近頃。
パートナーとちょいちょい喧嘩をすることができるようになってきて、
怒る感情はこうやって出してもいいんだ、と分かるようになってきた。
私の感情の高まりをいつも真摯に受け止めてくれるパートナーには感謝しかない。
喧嘩するほど仲がいい、とはよく言ったものだなと思う。
相手のことをよく知りたい気持ちと
自分のことを本当にわかって欲しい気持ちの、
ぶつかり合いなわけですが、それは表裏一体、同じことであることに気が付く。
ただ、立ち位置の違いだけ。
だから、見え方が違うだけ。
目の前の相手とのコミュニケーションでありながらも、しかし最終的には潜在的な自分との対話でしかない。
同じ熱量同士じゃないと、喧嘩も起こらない。。
お互いにきちんと真剣に向き合えた時に起こる、化学反応からの潜在意識の変容へ繋がる道でもある。
話は戻すけれど、
怒りを「悪い感情」と思い込んでいる私がいる。
なぜならば、、、簡単に言えば心身しんどいから。
幼き頃から身体で感じてきた。
怒りは、自分で自分を傷つけること。
そんな風にも感じていた。
どこかでそれを知っている。
怒りの感情を感じたら、私はその怒りを感じたくないばかりに、
「(その人から)してもらったこと」を思い出すことにしていた。
これは子どもの頃から自分でやってきたことだ。
(ちょっと私、、涙ぐましすぎる…これで拗れまくってきた)
でも、これって超しんどいの。
ここで。
湧いてくる感情に蓋をすることはできないんだよ、と、大きな(大人の)私が、小さな子どもの頃の私に向かって言う。
ただ誰かに対して怒りを感じたら無闇矢鱈にぶつければいい訳ではない。
というか、むしろそれは良くない。
最終的には暴力に繋がり誰かを傷つけ相手や自分の人生さえ破壊してしまうからね。
そう言うことではなくて、
「怒り」を感じた時
我慢しないこと。
その怒りを心身で感じ切ること。
感情を十分に受容したら、
なぜ、私は怒りを感たのかを問いかけることができれば、
自分が欲しいものが分かる。
何をしたいのかも分かる。
そして、相手に対して伝えやすい言葉を紡ぐことができる。
…これは大きな私ができること。
小さな私に大きな私が今言いたいこと。
怒っていいんだよ。遠慮しない。
ホロスコープでは火星が12ハウスにある私。
怒りの感情自体を感じづらい。
怒りを呼び起こさせてくれる人たちと事象はそんな私にとっては必要な存在。
有難い存在でもあるという事実。
どっかーん!!